
京都工芸繊維大学大学院に入学および進学された皆さん、本日は誠におめでとうございます。本日ここに入学宣誓式を迎えられたのは、大学院博士前期課程39名、博士後期課程23名です。これまで皆さんを支えてこられたご家族や関係者の方々に、本学の教職員を代表し、心からお祝いを申し上げます。本学大学院での時間が充実したものとなることを学長として心より願っております。
これまで皆さんは、学部課程においては、すでに体系化された知識を学んできました。これに対し大学院では、学部で修得した専門知識の深化とともに、自ら問いを立て、仲間とともに答えを見つけ出す学びが本格化します。博士前期課程においては、具体的な課題の解決に向けて、企画や設計から評価までの一連のプロセスを実践します。博士後期課程では、自ら課題を発見し、それを解決して新たな価値を創造する能力の形成を目指します。このような大学院の学びの中心になるのが、仮説形成です。
仮説形成の身近な具体例をひとつお話しします。ホンダのオートバイ「スーパーカブ」は、1958年の発売以来、世界最多の量産数を誇っています。このオートバイは、日本に加えて東南アジアを中心に普及しましたので、ここにおられる留学生の皆さんの中にも、このオートバイに乗った経験のある人がいるかもしれません。このスーパーカブの開発において、極めて重要な役割を果たしたのが、まさに「仮説形成」でした。
既存のオートバイを改良しただけでは、このような世界的大ヒットを生み出すことはできません。スーパーカブを開発した本田宗一郎は、「より多くの人がより簡単に移動できる乗り物とは何か」という問いを考え抜きました。小型で軽量であることを前提としつつ、扱いやすさ、燃費、耐久性、さらには生産性などを総合的に考え、様々な実現の手法がある中で、新たにスーパーカブを構想したのです。
本田宗一郎は、「より多くの人がより簡単に移動できる乗り物」という結論をまず定めました。そして、自然界や経済の原理・法則などの前提と、自身が定めた結論を結ぶ、いまだ世の中に存在しない具体的なものを構想しました。このようなまだ存在しない事物を構想することこそが仮説形成であり、これが工学の神髄です。
学部での学びでは、演繹や帰納といった思考が中心にありました。演繹は原理や法則から個別の結論を導き出し、帰納は個別の事実から一般的な法則を導き出します。しかし演繹や帰納だけでは、スーパーカブを構想することはできません。様々な実現の手法がある中で、実際に実現のプロセスを学び、仮説形成を体得していくことこそが、大学院での学びの本質と言えるでしょう。
建築の分野も同様です。精密工学や一般設計学が専門で東大総長を務めた吉川弘之は「建築こそ仮説形成の典型である」と述べています。作られた家や建築という前提があって、建築に要求される機能、例えば「100人が快適に暮らせる住宅」が結論とします。無数の可能性から、一つの建築の在り方を構想する。これこそ仮説形成です。
これまで、オートバイや建築物などの具体的な課題解決における仮説形成について述べてきました。仮説形成は、何かを「作る」人だけのものだと思うかもしれませんが、応用ではなく純粋な理解を目的とする基礎研究においても、仮説形成は不可欠です。新たな知識や理論、現象に対する理解を深めることを目的とする基礎研究の場合、仮説形成はどのように機能するのでしょうか。例えば、ニュートンが3つの運動の法則を見出した時に、2回の仮説形成があると吉川は指摘しています。1回目は研究の対象を絞る段階、2回目は法則を確立する段階です。
研究の対象を絞ること自体が、まず重要な仮説形成です。ニュートンは、自ら望遠鏡を発明するほど光について造詣が深く、また錬金術師でもありました。そのニュートンが、運動法則を考察する際に、対象から光や化学反応を除外したのは、今となっては大正解です。しかし、その除外という判断は演繹や帰納だけで説明できるものではありません。また、「慣性の法則」「運動方程式」「作用反作用の法則」の3つの法則を、地上の物体や天体の運動を説明する基本法則として確立したのがもう一つの仮説形成です。
このように、本学のあらゆる専門分野において、大学院での学びで最も重要なのは、正解のないところから「何を目指すべきか」、そして「それをどのように実現すべきか」という仮説を自ら構築する能力を磨くことです。与えられた問いから正解を導き出す能力を育んできた学部までとは、この点が大きく異なっています。
本学が掲げる価値創造を目指した工学、そして、知識の拡張や創造、科学的発見にとって仮説形成は必須の論理です。大学院で皆さんが自ら問いを立て、仲間と議論・協働し、さらには異分野や異文化の視点を学び、新たな価値創造に取り組まれることを心から期待しています。
秋入学は社会人や留学生の方が多く入学されます。日本人学生や留学生、社会人、企業研究者が分野や立場を越えて交流し、互いに刺激を受けることで、大学院での学びは深まります。特に留学生の方は、異文化の中で始まる新しい生活に難しさを感じるときがあるかもしれません。本学は都会の喧騒から離れた落ち着いた場所にあり、京都の豊かな文化的資産を享受しつつ、落ち着きと主体性を兼ね備えた学風を育んできました。安心して周囲の仲間や教員と積極的に交流し、勉学に励み、また自らの文化や視点を大いに披露してください。
本学大学院での皆さんの活動が実り多きものであることを期待しています。新入生の皆さん、本日は誠におめでとうございます。
令和8年9月25日
京都工芸繊維大学長
吉本 昌広