
本日、修士あるいは博士の学位を取得されました皆さん、誠におめでとうございます。京都工芸繊維大学を代表し、心からお祝い申し上げます。そして皆さんをこれまで支えてこられたご家族の皆様、関係者の方々に対し、また、研究を指導された教員の方々に心からお祝いを申し上げるとともに、感謝の意を表します。
今回の学位記授与者は、修士が45名、博士が論文提出による方1名を含めて16名です。1988年の工芸科学研究科設置以来、本日分を含め14,125名の修士号と、1,451名の博士号を授与して参りました。
皆さんの新たな旅立ちにあたり、「共感」という言葉を送りたいと思います。ここでいう共感とは、単に相手の意見に賛成することではありません。むしろ、自分が賛成できない意見に対して、なぜその人がそう考えるに至ったのかを理解しようと努めることを意味します。異質な他者を理解するための知的な力と言うこともできます。
本学は、タイのチェンマイ大学と国際連携教育課程、いわゆるジョイント・ディグリー・プログラムを共同で実施しています。このチェンマイから北に200キロほど離れた山岳地帯に、ドイトン(Doi Tung)という地域があります。
かつてこの地域では、多くの人たちが麻薬の栽培によって生活を維持していました。そこでタイ王室の設立した財団が、麻薬撲滅と少数民族の自立を目指し、1987年から30年計画で、安定的で合法的かつ尊厳ある生活手段を築くための支援活動を行いました。この取組は、麻薬撲滅への大きな貢献として国連薬物・犯罪事務所から認定を受けるなど、国内外で高く評価されています。現在では、住民は麻薬の栽培をやめ、コーヒーやマカダミアナッツなどの栽培、現地の伝統文化を活かした陶器や手漉き紙などの手工芸品、観光業などの産業に従事するようになりました。ドイトン産のコーヒーは日本でも入手できますから、飲んだ人もいるかもしれません。
この地域再生の中心人物が、クンチャイ(Khun Chai)という人物です。麻薬栽培によって環境や生活が破壊され、心がすさんでしまった人々を、自立と再生へ導くことがどれほど困難であったかは容易に想像がつきます。クンチャイは、人々の行動を批判するのではなく、その行動を生み出している人々の状況に共感しました。彼は上から計画を指示するのではなく、現場の情報を重視し、住民と話し合い、試行錯誤を重ねながらプロジェクトを推進したのです。この様子は、経営学の大家である野中郁次郎の著書『野性の経営』の中で生き生きと描かれています。彼は、現場での実際の経験、正確な一次情報、そして失敗からの学習を重視しました。つまり、彼にとっての共感とは、相手の立場に立って世界を見つめ直し、その世界の中から新しい可能性を発見することでした。
このような共感は、日常の工学においても不可欠です。共感の欠如は、時に大事故を引き起こすことがあります。今から40年前に、アメリカのスペースシャトル・チャレンジャー号が爆発事故を起こしました。打ち上げ直後のスペースシャトルが、大空のなかで巨大な白煙を吹き出し、空中分解する衝撃的な映像を目にしたことがある人も多いでしょう。その後の調査により、事故の原因は、固体ロケットブースターに使用されていたOリングというフッ化ゴム製の部品が打ち上げ時の低温によって弾力性を失い、不具合を引き起こしたことが明らかになりました。当時、博士課程の学生だった私は、規模こそ異なりますが自作の真空装置に同じ部品を使っており、身近に起きている現象が大事故の原因だったということに、二重の衝撃を受けました。
この事故では、打ち上げ前から、一部の技術者によって問題の部品に対する懸念が示されていました。しかし組織の中では、この技術的な懸念に対し、過去の成功体験や慣例、打ち上げスケジュール、経営上の判断などが優先され、同調圧力によって、悲劇につながる最終的な意思決定に至ってしまったのです。打ち上げをスケジュール通り進めたい側からすれば、異論を唱える一部の技術者の声や背景にまで思いを巡らせることができなかったのかもしれません。
組織の同調圧力を乗り越え、自分が賛成できない意見に対し、なぜその人がそう考えるかを理解することが極めて重要になる局面が、これから皆さんにも訪れると思います。
このような共感を経て初めて、自分とは異なる論理や背景を真に理解することができます。その理解は、自分の考えを相対化し、本質的な問題の発見につながります。そして本質的な問いの発見こそが、新しい知恵を生み出すことにつながります。野中は『野性の経営』の中で、「異質な主観、思い、意見をもつ他者と、自己のエゴを超えた無我の境地で、忖度も妥協もない命懸けの熟議をしなければ、善後策は見えてこない」と述べています。
これからのAI共生社会、すなわち、AIが人間の単なる道具にとどまらず、社会のパートナーや一員として組み込まれ、協働しながら共に生きる社会では、異質な主観や思い、意見を持つ他者への共感がますます重要になるでしょう。本学で培ったTECH LEADERとしての資質をベースに、異質な他者に共感することで、きっと皆さんは様々な場面で活躍し、本学が理念に掲げる平和で豊かな社会システムの構築に貢献されることと思います。
本日は、誠におめでとうございます。みなさんの今後の一層のご活躍を祈って、お祝いの言葉といたします。
令和8年9月25日
京都工芸繊維大学長
吉本 昌広